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伊賀くみひもの歴史

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 伊賀くみひもの歴史は、古いものと推察されているのだが、実際にはその資料はほとんど残存していない。 昭和38年7月名阪国道の改修工事に伴い実施した久米山古墳群発掘調査の際、4〜5世紀のものと推察される傍制方格規矩四神鏡(ほうせいほうかくきくししんきょう)についた紐が発見されている。四神鏡の背面の鈕とよばれるつまみに通されており、伊賀で発見された古代のひもの嚆矢(こうし)ともいうべきものである。 南北朝時代(西暦1336年〜1392年)末期伊賀に発祥した観世能(かんぜのう)の観阿弥(かんあみ)の衣装や面などに組紐が用いられていた。 忍者の貴重な文献「萬川集海(ばんせんしゅうかい)」(1676年完成)全26巻のうち第13巻に下げ緒七術に使われた下げ緒の紐が記載されているが、戦国時代末期の忍者により使われていたことがわかる。 藤堂高虎の伊賀入国とともに、城下町の築造、武士の城下町での居住により武具の需供体制が確立された。京・大坂経済圏の伊賀での組紐は、伊賀国内に限らず、京・大坂にも販路を求めたことであろう。 寛永6年(1794年)伊賀上野本町友野屋忠兵衛旧蔵の「柄糸組手本帳(つかいとぐみてほんちょう)」に30種類に及ぶ組見本が載っており、また藤堂藩よろい師筒井小市郎などにより、甲冑の縅用(おどしよう)としての組紐も盛んにつくられた。その器械の一部が、明治8年4月(1875年)筒井甃三の主唱で伊賀上野丸之内御書院跡(現上野高校第二グランド)において開催された「伊賀上野博覧会」に呉服商佐那具屋筒井善次から出品されている。このことは、伊賀の組紐が産業として実存していたことの立証である。 組紐が産業として基盤を整えるようになったのは、いくつかの要因がある。伊賀盆地は原材料の養蚕が盛んであったこと、和装商品の本場京都に近く気候・風土が温度、湿度に鋭敏な絹糸に適していたことや、交通の便が悪く産業もなかったことである。それに加えて伊賀に伝わる家族制度において、自分の家で子女のしつけをするというしきたりも見逃すことができない。必ず正座して行われなければならない手組紐はそのひとつである。その一本一本はこの地に生まれ育った俳聖芭蕉に見る豊かな感受性と伊賀忍者の根性、忍耐を受け継いだ人々が古来より伝わる組紐の技法と絹糸、金銀糸で組まれてゆく優雅な高貴性とともに伊賀の風土を感じさせる。 明治の廃刀令(1876年)による武家社会制度の崩壊により武具、装具類を中心としたよろい師、打紐師(うちひもし)、刀鍛冶師(かたなかじし)などは苦難の時期を迎え、産業としての組紐は衰微することとなる。技法・技術は、よろい師の筒井景春、筒井猪久蔵たちにより、伝承された天神祭の楼車の模型や人形などに残された。 こうした土壌のうえに、明治35年(1902年)広沢徳三郎氏が東京から組紐の技術を習得して帰り、故郷の上野市上林で江戸組紐の糸組工場を設立し、帯締め・羽織紐等に活用するなどをして、江戸組紐の技術を伊賀に伝え再び開花させたのである。いま伊賀組紐の中輿の祖として、氏の偉業を顕彰する「組紐顕彰碑」が、西小学校東北隅の道路際に立っている。 以後、再び伊賀の風土に組紐技術がよみがえり、伊賀が組紐の産地として大きく発展し、特に手で組みあげる手組紐は、全国生産額の大半を占めるまでになった。全国に出回る多くの帯締め、羽織紐がこの伊賀で製造されている。また組紐のネクタイ等の新商品を開発してきた。 古来の組紐の手法を育にながら、近代感覚に合った優雅な伊賀くみひもではあったが、後継者確保難と韓国産紐の進出により、伝統工芸の伝承が紺難易なるに至ったので、昭和51年12月通商産業大臣の定める「伝統的工芸品」の指定を受ける。 手組みをはじめ、伝統技術を生かし製紐機(せいちゅうき)による生産研究も進み、名実ともに特産地として発展している。これは伊賀の組紐を取り扱う人々の不断の努力の結果である。

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